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2006年7月26日

キヲツカオウ

カテゴリー: 家づくりの理念


最近、森林や林業に関する本を読むことが多いのですが、今世界各地の森林では、至るところでたいへんなことが起きているようです。
人間は古くから、生きるために、豊かになるために木を伐採し、建築や土木用の木材や燃料として使ってきました。あるいは木を伐った跡地を、持続的に食料を確保するために、農地として使ってきました。
しかし、昔のように森林の成長と人間が木を使う量の調和がとれていればほとんど問題はなかったのですが、現在では人口が増え、循環よりも成長することが善しとされる考えの中で、明らかに木を使う量が増えてしまい、急速に森林が減少しているのです。

一方で、私たちの国の森林を見てみると、たくさん木を使うためにあれだけ有用な木を植林したにもかかわらず、現在の木材自給率は2割程度で、むしろこの国でとれる木をできるだけ多く使っていったほうがよさそうな状況です。

確かにこの時代、国産材を使う量を増やすことは日本の森林を再び豊かなものにする一つの必要条件かもしれません。
しかし、世界の森林事情を知れば知るほど、日本の森林問題を「量」で解決することは果たして森林に明るい未来をもたらすのかどうか、疑問に感じたりもしています。
仮にこのまま国産材の需要を伸ばす流れができたとするならば、経済の仕組みは森林の世界の調和を維持することができるでしょうか。世界の森林で起きていることと同じように、日本の森林が駆逐されることはないでしょうか。
森林再生に関する議論の中で、今需要のある集成材への加工を進めたり、あるいは海外輸出を増やそうではないか、という話を聞いたりすると、余計にその危惧を感じてしまいます。

木を使うということは、食べるという行為と同じように、一つの生命の力を私たちは拝借するわけです。
食事の前に「いただきます」と唱え、食べるときはお行儀を大事にするように、木を使うということも同じことではなかろうかと思います。
まして、一度使ったらこの先何十年、何百年と、目に見える形でお付き合いするわけですから。

だとするならば、木は流通商品として‘たくさん使ってあげる’モノではありません。
木を‘モノ’としてではなく、命あるものとして、そのふるさとと、育ててくれた人たちに思いを馳せ、然るべき行儀と作法のもとで使っていきたい、そして木がよろこぶ使い途を考えていきたい、木の使い途を考える立場の人間として、私はそう思うのです。

2006年5月30日

森は人間の鏡

カテゴリー: 家づくりの理念

世界の森林破壊を追う〜緑と人の歴史と未来〜(石 弘之著)を読んだ。

この手の題名の本は、保護一辺倒の論調ではないか、という先入観があるが、そうではない。
著者は、人間が生きるために森の恵みを使い、森と人間が共存関係にあるべきだという前提に立って、冷静に世界で起きている今の森林の状況を報告している。

そして私は、世界の森は今、たいへんなことになっていることを知った。
木を日常的に使う立場の者としては、衝撃的な内容であった。

日本でいくら国産の木が使われなくて困っているからといって、自然の恵みには変わりがない。
やはり、木は木として、目の前にあるものを大事にいただかなくてはならない。
やみくもに使ってよいものではない。
私たちは木を、木に対する愛を以って、そして人間社会の中で計画的に使っていく必要があろう。

ところでこの本を読んで、「経済」ってなんだろう、「国際社会」ってなんだろう、という疑問が沸々と湧いてきた。
世界の森林が破壊され続ける状況を見るにつけ、「収奪」と「征服」が仮面をかぶったものではないか、という気すらしてきた。

「経済の発展」という大義のもとに、各地域の恵みが収奪されていく。
自らの手と汗で幸せを求めるのではなく、今は他人から何かを奪うことで経済が発展する仕組みのように見える。
「国際社会化」という名のもとに、一つの価値観や文化が押し付けられ、地域の文化が否定されていく。
列強諸国による植民地支配が、‘武器’を変え、姿カタチを変えて各地で続けられているようにも見える。

そしてその行き着く先は、どこまでも同じ価値観や風景が続く世界だ。

日本でもその現象が顕著に出ている。
どのまちへ行っても同じ店、同じ風景。

「地球」は一つしかないけれど、「世界」は一つでおもろいか?
地球上にいろいろな世界があってよいではないか。
いや、そのほうが人間にとって気持ちよいはずだ。
なぜならば、一つとして同じ場所がないのだから、そこで自分たちを気持ちよくするために作る世界もいろいろのはずだからだ。

結局、誰のための「経済」、誰のための「国際社会」ということだ。
自分の利益のみ追求したならば、結局以上のような話になる。
森林の破壊、干ばつや洪水の被害の深刻化、砂漠化…、その場で本来の人間としての活動が困難になる状況となるという現象は、結局そうした行いの集積に対して自然界が出した結論だ。
経済や国際社会の支配者は、こうして食い散らかすだけ食い散らかしたら別の地にシアワセを求めに行けばよいが、元々そこで暮らす人たちにとってはたまったものではない。自分たちが尻を拭わされるのだ。

も少し、三秒でもよいから立ち止まって、‘他人のシアワセってなんだろう’、と考える余地があれば、きっと結果は違うのに。
あるいは、何秒後、何年後の自分だって、ある意味では‘他人’なのだ。

森は人間の鏡。
森がなければ私たちは暮らせない。
今、世界の森、いや近くの森でよいから、森で起きている状況を知り、自分たちの行いを糺していく必要がありそうだ。

2006年2月6日

きらくな風高層マンション考

カテゴリー: 家づくりの理念

先日、ネット上のニュースで「6階(だったような気がする)の階段の踊り場から、誤って転落死?」という記事を読んだ。

この記事を読んでというわけではなく、前々からのことではあるが、高層マンションを本当に作る必要はあるのだろうか、そこは本当に人間の住む場所であろうか、という疑問を私は持ち続けている。

自分は高所恐怖症ではない(と思っている)。
小学生の頃、小学校の4階の窓の外に出て幅15cmほどの持ち出しスラブを平均台にようにして遊んでいたくらいだし(今やったら大問題?)、今でも建築現場で高いところに居ても恐怖感を感じることはない。
しかし以前、30階以上あるマンションのモデルルームに見学に行ったとき、バルコニーや階段の踊り場から下を覗くと、地面からとてつもなく大きな力で引き寄せられる感覚を覚えた。
地面からの呼びかけに素直に従ってみようかな、オレだったらきっと大丈夫、なんて想像してみるが、そんなことしたら間違いなく「死」だ。
そんな感覚を覚えたりするものだから、マンションの高層階に少なくとも自分は住もうとは思わない。
それでなくても、一歩間違えたら死がすぐに待ち受けている場所だ。
元来行動がそれほど正確ではないので(笑)、余計に一歩間違えたら…、ということを考えてしまう。
そのように、身近に「死」を意識しなければならない場所があることは、自分はどうも落ち着かない。

次に、巨視的な視点で高層マンションが必要なのかどうか調べてみた。

東京都の人口 1257万人(H15)
東京都の宅地面積 555k㎡(H15)
東京都一人当たりの平均宅地面積 44㎡
東京都一人当たりの有効平均宅地面積 35㎡
(有効率80%として)

神奈川県の人口 849万人(H15)
神奈川県の宅地面積 570k㎡(H15)
東京都一人当たりの宅地面積 67㎡
東京都一人当たりの有効宅地面積 54㎡
(有効率80%として)

東京都で考えると、容積率100%でも、3人家族で平均105㎡、4人家族で平均140㎡の住宅で暮らせることになる。
一般論で言えば充分以上の面積だ。
あくまでも「平均」の議論なので乱暴な計算ではあるが、仮に全ての土地が容積率100%でもそんなに窮屈ではない。
容積率100%で居住面積の確保が可能と仮定すると、東京でも平均せいぜい3階(層)建ての建物までで充分ということになる。

一方、現在空き家となっている住戸は全国で約650万戸。
全住宅戸数の14%に相当する。
7戸に1戸が空き家。
さらに今年あたりから日本の人口は減少するようだ。

今でも都心部を中心に、デカくて背の高いマンションがたくさん作られているようだか、一体この先どないするんやろ、と思う。いつか今のこのしくみが破綻するように思えてならない。

数字から判断すれば、これから新たに住宅を建てる必要性は、人口が増加傾向に転じない限り、間違いなく減り続けるということになる。
ということは、住宅の供給量を競う時代ではなく、住宅を新たに建てる意味と意義が一つ一つ問われる時代になるといえる。いやむしろ、そうなってほしいという願望のほうが強いかもしれない。

いずれにせよそのような状況を、とくに建築でメシを食う人たちは十分に見据える必要があるであろう。

2005年10月7日

ゆるやかな家具作り考

カテゴリー: 家づくりの理念


家具は、文字どおり、家の中の道具。
道具だから、日常生活の中で身近に頻繁に使うものなのに、今の無垢の木でできた家具はお値段が高すぎやしないか、ましてや、糊や塗装などを安全な材料で作ることをお願いしようものなら。

以上の家具の存在を否定するわけではない。いやむしろ家の中に、存在感のある広葉樹の一枚板のテーブルがほしいくらい。

しかし何十万円もするんだな、これが。
家の中全ての家具がそのようなものだったら、とてもじゃないが、お金がついてこない。きっと家族もついてこない。

やっぱり家の中の日常の道具なのだから、お手軽に手に入れることができないものだろうか。
そう言うなら、100円ショップ行けば、プラスティック製のものがあるじゃないか、と思うかもしれないが、いかにも無表情だし、心豊かな感じがしない。
何とか、家具の世界で「お手軽」と「心の豊かさ」を両立できないか。
前からそう思っていた。

しかし、今日はそうした世界に出会うことができた。
その世界の主は、日野でカフェをやっている山崎さん。
カフェを営みながら、その辺の雑木を使って自作で家具を作っている。
例えば椅子。
椅子って、その辺で拾ってきたような木で満足のいくものがまともに自分でできるんだろうか、と思うけれど、作り方を聞くとなんだか自分でもできそうである。
しかも、生木を使ってもいい、という。
全てがそうとは限らないが、生木は生木の使いようがあるとのこと。
これはさすがに軽いカルチャーショックを受けた。
家具の常識とは明らかに異なる世界だけど、しかし本当に自分の手でいろいろできそうな気がしてきた。

では、デザインはどうなんだ?やっぱり素人なりのものしかできないんじゃないの?と思うかもしれないが、いやいやこれがなかなかいいのだ。むしろ手が込まないから、素朴な風情のものができる。

確かにプロから見ればいい加減な作りかもしれない。
しかし、自分の生活を、自分たちの手で、身近にあるものを使って豊かにする術の一つとして、こうした家具の世界もあっていいと思う。
何もトラックや船に乗ってやってきた立派な銘木を使わなくても、その辺りの木だって生活を豊かにすることができるのだ。

実は、山崎さんの世界を里山に持ち込んで、里山を楽しむしかけの一つとして考えている。そうした目で里山を見れば、里山は資源の宝庫に変わる。
里山の維持・再生は、人との適切な関係、人の適切な手入れが不可欠である。
こうしたことが一つのきっかけとなって、再び里山と人との関係を取り戻すことができれば、と思う。

2005年9月25日

絶対に使わない言葉

カテゴリー: 家づくりの理念

この先、家づくりの考え方を徒然なるままに。

今日は、自分がこの仕事をしていくうえでの禁句を一つ。
それは、「ユーザー」、または「エンドユーザー」という言葉。
いつだったか、材木屋のOkさんの前で自分がこの言葉を発したときに、
「その言葉は建て主をバカにしている言葉だよな」と言われた。

はっとした。まいった。まさにそのとおり。
それ以来、絶対に使わない言葉。

家づくりは、建て主、様々な職種の職人、材木屋、金物屋などの材料屋、そして設計者の共同作業。
家づくりに関わる誰もが、家づくりという物語で、重要な役どころを担う。
その中でも建て主は、この物語の傍観者ではない、文字通り「主」、主役なのだ。
家づくりの完成をただただ待ち、その建物を単に「使う人」では決してない。

話はそれるが、現在家づくりを取り巻く世界では、様々な問題が起きている。
例えば、シックハウス症候群。
現在の仕事と立場から、ここ数年、その問題について深く関わってきたつもりだが、その中で気づいたことがある。
それは、シックハウス症候群の原因はいろいろあるが、その根幹を成すものの一つは、作り手と住まい手の関係があまりにもはっきりしすぎている、あるいは乖離してしまっていることではないか、ということである。

家を作る立場の人たちが、住まい手(=建て主)と近い関係にあればあるほど、良い仕事をする。もうけ抜きに、いい建物を作ってあげたいと思う気持ちが強くなる。これは絶対に間違いのないことである。ましてや、「これは身体に悪いかもしれない」と知っててその材料を使うことはまずない。

また作り手は、どんな立場であれ、不備の指摘(=クレーム)を恐れる。
一方で住まい手は、家づくりの世界から遠ざかり、単に使う人、つまり「ユーザー」になり下がってしまった。それにより、家に住んでいくうえでの手入れの知識と技術を総じて失っていった。
すると、至極簡単に自分で直せるようなことでも、クレームになる可能性が高まる。
だから、そんなに技術がなくても見栄えのする、あるいは手入れの不要な建材が発達する。
それを可能としたのは、歴史上地球上にほとんど存在しなかった様々な化学物質の開発と使用。そしてそれらがシックハウス症候群の原因となる。

いい家づくりの絶対必要条件。
それは、家づくりに関わる全ての人たちの信頼関係を築くこと。

家づくりを提案する側の自分が、家づくりの世界からの拒否を宣言するような「ユーザー」という言葉を使うようでは、こちらから信頼関係をお断りしているようなものだ。

たてものやの役割の一つは、家づくりの世界と建て主の関わりを深めること。
いろいろ課題はあるが、私が直営方式による家づくりに取り組むゆえんである。予算を安くするための手段では、決してない。
そして、単に建築設計だけが仕事ではない、という思いが、屋号で「たてものや」と称しているゆえんでもある。