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2006年2月21日

‘うまい’‘気持ちよい’を時間軸で捉える

カテゴリー: 今日のできごと

今日、出先の現場で実に久しぶりに自分から進んで甘みの入った缶コーヒーを飲んだ。
普段缶コーヒーを飲むとしてもブラックにするのだが、今日はちょっと甘いのがほしいな、と思って「微糖」を買ってみた。

飲んでみると、味はまあこんなものか、という感じ。

しかしその後がよくなかった。
しばらく舌に、ゴロゴロするような妙な変な感じが残っている。
う〜ん。少し気持ち悪くすら感じる。

最近、この後味、さらには食べた後の身体の様子、もっとさらには次の日に出るもの様子をよく感じるようにしている。
食べるものと身体の因果関係。

だから余計に後味の悪さを感じた。

さて、ここ最近食の安全を求める声が強くなってきている。
とてもよいことだと思う。
しかし、本質的にうまい食べ物は、舌だけでなく身体も悦ぶはずで、身体にとって安全であるのは言うまでもない。と考えている。
だから、「安全」を頭ではなく、身体で感じたいと思っている。

「安全」という切り口だけではない。
「○○は何々に効く」とか「何々がたくさん含まれている」とか、うるさいほど最近よく聞く。
まあ、確かにそうなのかもしれない。
しかしそうした情報は「頭」でなく「身体」で感じてみたい。
「身体」がうまい、と思えば、それは身体によいのだ、きっと。

先ほどの缶コーヒーの原材料の欄に目をやる。
添加物がたくさん。ああ、やっぱり。

やはり、‘うまい’‘気持ちよい’を長い時間軸の上で感じることによって、見えてくることがある。

そして、‘うまい’‘気持ちよい’を長い時間軸の上で感じる場とは、生活とは?
その解の中に、私は自分の仕事、家づくり、まちづくりの手法を見出したいと思っている。