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2009年1月23日

記憶喪失のまち

カテゴリー: 今日のできごと

今日久しぶりに、
幼少のころから小学6年生まで
住んでいた最寄りの駅で
電車を降りました。

いつ以来でしょう?

しかしこのまちは、
区画整理が行われ、
道路も建物も
何もかも一新され、
昔の面影は全く
なくなってしまいました。

だいぶ前に来た時、
私が子どもの頃
覚えているまちなみが
まだそこにあった時は、
多少お店や建物が
入れ変わっていたとしても、
ここで○○したなあ、とか、
ここの○○はうまかったなあ、とか、
一歩一歩ごとに記憶がよみがえり、
とてもなつかしくて
そしてなぜか
ドキドキしたものでしたが、
今日来た時は、
私の全く知らないまちでした。

一方、今日の夜、
建築史を学ぶ講座に参加。
その講座で講師の方の
「歴史は時の積み重ね」という言葉が、
お昼のできごとがあっただけに、
よけいに胸に沁みました。

戦後私たちは、
戦争の嫌な記憶を、
捨て去りたかったからでしょうか、
あるいはがむしゃらに、
前を向くしかなかったからでしょうか、
これまで先人が積み重ねてきたものを
否定するどころか、
その存在すら記憶から、
消し去ろうとしてきました。

いやそうすることこそが、
戦争から立ち直り、
戦後の高度成長を遂げる
原動力だったのかもしれません。

ただ今日、
その流れを酌む結果に直面してみて、

がっかりというよりも、

しみじみと、
無常とはこのことか、
と感じ入るというよりも、

全てが無になり、

お互い何も知らない、
赤の他人同士に引き裂かれ、
そこにもう愛は
失われてしまった、

そういう‘乾いた’
気持ちがしました。

しかしこれは、
他所者の勝手な意見、
例えるならば、
昔付き合っていた異性の
結婚相手に口出すようなもので(笑)、
区画が変わる直前まで、
そこに住んでいた人たちの声を
ぜひ聞いてみたいところです。

一方なぜ私は、
歴史都市、いや歴史都市でなくとも、
時を丁寧に積み重ねたまちに
心打たれるのか、

それは単に、
まちなみの美しさ
ということだけではなく、
その理由が肌で
分かったような気がしました。

2009年1月22日

鉄錆色の鉄扉

カテゴリー: 藤沢む邸


ようやく
玄関に取り付く、
鉄錆色の鉄格子扉が
入りました!

冬のこの乾燥時期、
錆がなかなか進行せずに
納品が延び延びになっていただけに、
感慨もひとしお。

なおこれは、
いつも鉄製品をお願いしている
ブルーム柳楽さんの製作。

外壁に貼っている
みんなで作った、
ベンガラを塗り込んだ焼杉板と、
見事に同調しています。

鉄格子の向こうには、
今段ボールが貼られていますが、
これが仕上がりではないですからね(笑)
後に摺りガラスが入ります。

2009年1月21日

マイブーム その2

カテゴリー: 藤沢む邸


天窓ではなく、
上から光が降り注ぐしかけ。

ここ藤沢む邸では、洗面所。
鎌倉ほ邸では、
納戸にしかけました。

窓が北側だったり、
大きな窓が付けられないんだけど、
光が少しでもほしいと思う場所に、
このようなしかけを
考えることが多いです。

マイブーム その1

カテゴリー: 藤沢む邸


おっと、
なるべく外来語を
使わないように
しているのですが、
まあ、仕方ない(笑)

というわけで、
マイブームその1、
家の中で「お〜い」とできる窓。

藤沢む邸の場合、
子ども部屋の小屋裏から、
階段の様子がうかがえる
窓があります。

風も通りますしね。

気がつけばこうして、
意外なところで会話できる
窓を付けることが
多いなあ。

2009年1月19日

宙に浮く禁断の部屋

カテゴリー: 鎌倉ほ邸


光に誘われ、
トンネルをくぐると、
本を読んだり、
昼寝に心地よい
屋根裏部屋が現れます。

休みの日は、
気がつけば一日、
ここに吸い込まれて、
居てしまいそうです。

おっとここはホウリツ上、
「小屋裏物置」。
あくまでも物置。
禁断の部屋、ですね。

夕陽返し

カテゴリー: 鎌倉ほ邸


夕方、東向きのロフトを覗くと、
隣の家の壁に夕陽が当たり、
それが反射して、
やわらかく夕陽が
射しこんでいました。

雲梯

カテゴリー: 鎌倉ほ邸


居間の南面窓の
上部にある雲梯。

雨の日洗濯物を干したり、
子どもが登って遊んだり、
縄をぶら下げてブランコにしたり、
吊戸代わりに使ったり、
いろいろ使えます。

しかしこれがあるとつい、
手を伸ばして
ぶら下がってしまいますね。

陽を浴びながら
背筋が伸びて、
気持ちがいい。

2009年1月18日

森の話、木の話

カテゴリー: 今日のできごと

大磯エピナールで開催されている
職食まつり学園の一環で、
「風土と職人が作る家づくり」について
お話しする機会をいただいています。

今日はその初回。
「森の話、木の話」を
させていただきました。

遠くからいらしてくれた方もいて、
ありがとうございます!

私はこうして
家づくりについて学べる場を
大事にしていきたいと思っています。

次回は、2月15日(日)。
「木組み」についてお話したいと思います。
皆様、よろしくお願いいたします。

2009年1月17日

長持ちする家とは

カテゴリー: 家づくりの理念

先代の総理が200年住宅構想を
掲げた影響もあると思うのですが、

最近よく、
家の寿命に関する問い合わせを
耳にします。

そのことに意識が向くこと自体、
とてもよいことだと思います。

では実際、
私の場合どうなのか。

先日、
私が関わる家づくりの記録が
テレビで放映されました。

その番組の中でも、
家の寿命について
触れていただきましたし、

その後番組を見た方々からも、
ありがたいことに、
この造りだったら○○年持つね、
というお言葉を数多くいただきました。

しかし私はそのような
ありがたいお言葉をいただいたとしても、
ハイ!この家は○○年持ちます、
と、堂々と返事できない自分がいます。

それはこの造り方に、
構造上不安があるとか、
そういうことではありません。

○○年持つかどうかは、
最終的に私ではなく、
住まい主自身が決めることだから、

私の口から○○年持ちます、
と言うのは、
少しはばかれるのです。

あるいは、
「持たそうと思えば」
という枕詞を添えます。

もっと言えば、
家の物理的な性能だけで、
○○年持ちます、と
気軽に言っていいのかという疑問が
常に頭に引っかかっているのです。

私は仕事柄、
建ってから何百年も経った
古い民家を見る機会があります。

そうした家の中には、
もちろんしっかりした
造りである場合が多いのですが、
中には正直申し上げて、
この造りで○○年よく持ったな…、
と思うこともあります。
しかも地震などで大きく傾いてもなお、
使い続けている家すら
見かけることがあります。

一方で、
築年数にかかわらず、
いい建物なのに、
まだ使えそうなのに、
壊される運命の家も
たくさん見てきました。

それが例えよい風景を作り、
周りの人たちに愛されていたとしても、

それを持っている人が
「要らない」と思えば、
基本的にはその時点で
寿命を全うしてしまうのです。

こうした経験をしていくうち、
家が長持ちするかどうかは、
物理的な理由もさることながら、
家を持っている人が
使い続けたい、住み続けたい、
という想いが、
実は大きく関わっていると
思うようになりました。

世の中の仕組みや
生活様式に翻弄されることなく、
持ち主にずっと愛され続ける家。

もちろん設計者として、
職人の技を生かし、
丈夫なように、
手が入れやすいように、
家の計画を考えます。

しかしそれはむしろ、
条件というより大前提、
そうした前提の中で、
如何に家が愛され続けるか。

そしてそのためには、
家づくりに関わる職人たちが
如何にその家に愛を注ぎ込み、
また建った後も愛着を持って
関わり続けることができるか、

私は家づくりに取り組む際、
このことを強く強く、意識しています。

ですから私にとって、
まずは目の前の建主が、
この世で生きている限り、
生活の伴侶として
その家も生き続けていてくれること、

「オレは、一生この家に住む」と
建主が言ってくれることが、
当面の第一目標です。

ではその次の段階、
私が今の時点で
建主の次の世代のことを
想像することは容易ではありません、
いやはっきりと、
分からないと言ってもいいと思います。

ただそうした家に対する愛情は、
住んでいる途中で急に盛り上がることは
ほとんどないわけですから、

例えどんな作りの家だったとしても、
家を新たに作る段階で
家づくりに関わる全ての人たちが
えがおで現場に顔を出し、
魂を込めることができるか、

次の世代に愛が受け継がれていくために、
今私ができることといえば、
そのことだと思うのです。

「設計者」という立場として、
家の物理的な性能を高々と掲げ、
後世に残していくことも大事かもしれませんが、
私はそういったことのお膳立てにも目を向け、
力を注ぐべきなのではないかと思っています。

何度も書きますが、
私が家の耐久性のことを聞かれると、
理屈っぽくなって、
何となくお茶を濁した返事をするのは、
造りがヤバいとか、
そういったことではないですからね(笑)。