せがいの世界
今日某所で見た、
二方せがい作りの
古い建物。
等間隔で
跳ね出す腕木が
空間にリズムを与え、
高台にそびえ、
空に跳ね出す姿が
なんとも力強い。
リズムに乗って
力強く歌う
音楽のようです。
・・・・・
ボクたちは今、
せがいの世界に魅せられ、
せがい作りの家を
設計中。
このリズムと力強さに、
現代の感覚を融合した家に
していければと思います。
先日の日記の続きです。
誰しもが多かれ少なかれ、
美しい街並みのまちに
住みたいと思っているであろうのに、
今の日本の街並みが
(私にとって)
美しくなるどころか、
醜くなっていくのは、
なぜなのだろう、
今ここそこで
作られている風景は、
本当に皆が心から、
求めていたものなのでしょうか、
もしそうでないとしたら、
なぜそうした風景が
作られ続けているのか、
その原因は、
まちなみけんさんの
おっしゃるとおり、
風景の一粒一粒を
作る側の「心」の問題が
大きいと思います。
それぞれのまちの中には
風景を何とかしようと
考える人たちがいるのに、
なぜその心が
つながっていかないのか、
あるいは、
その心をつなげていくには
どうしたらいいのかを
考えていきたいと思います。
一方、
今私がたどり着きつつある解の一つは、
それも元をたどれば、
「心」の問題になろうかと思うのですが、
場所への想い、
あるいは関わりが希薄なのに、
縄張り意識は強いという、
日本人の土地に対する意識、
そして、
そうした意識の上に立つ
住まう場所を提供するしくみや制度が
日本の風景を
貧しくさせているのではないか、
ということです。
心の問題、土地の問題、
いずれもそれらを今すぐ
根っこから変えていこうと思うと
あまりに大きすぎる話で
途方に暮れてしまうのですが、
とはいえやはり、
一つ一つ、
心のこもった風景の一粒を
しっかりと作り続けるとともに、
その根っことなる部分を
何とかしていきたい、
常にその想いを心の片隅に置き、
その方法論を
探っていきたいと思うのです。
まず私たちにできることは、
自分の住むまちからですね、
同じ鎌倉に住む
まちなみけんさん、
これからもよろしくお願いします。
昨日、
葉山ピスカリアで
お友だちの音楽デュオ、
「南無」さんお二人と
食事を楽しみました。
このお二人、
お話していると、
日々の呼吸と音楽を
純粋に楽しんでいる感じが
伝わってきます。
二人の音楽、
また生で聴きたいなあ。
ところで今月、
ピスカリアに足を運んだのは、
一体、何度目でしょう。
今やきらくなたてものやの、
第二の打ち合わせ場所、
あるいは‘応接室’と
化しています。
しかしここは、
何度来ても美味しく、
そして、
あたたかい気持ちになります。
シェフのIさんをはじめ、
葉山というまちが、
そうさせているのでしょうね。
この時期、
葉山があたたかいと感じるのは、
気候だけではないようです。
今日の午後、
いつも左官工事を
お願いしている
大和の湯田工業に
立ち寄りました。
すると、
いつも家づくりの現場で
壁を塗っている
職人4人衆が、
石膏を使い、
天井に取り付ける蛇腹を
作っていました。
古い洋館の改修のため、
作っているものだそうです。
石膏を使えば、
手間はたいへんですが、
一度型を作ることにより、
こうした蛇腹をはじめ、
螺旋階段の手摺のような
三次元の形、
あるいは、
複雑な形や模様を
たくさん作ることが
できるそう。
どんな形のものかというと、
西洋の教会や神殿などにある
装飾を思い出していただければ、
と思います。
しかしこれは、
職人仕事を通り越して、
芸術作品のようです。
湯田さんによると、
今はこうした仕事は、
たいへん珍しいものに
なってしまったようですが、
考えてみれば、
昔に作られた建物を見てみると、
こうした洋館の装飾をはじめ、
蔵に施された鏝絵、
社寺仏閣で随所に見受ける
様々な木の彫刻、と、
職人が腕を振るい、
建物の中で
芸術ともいえる
造形を作る機会は、
それなりに
あったと見受けます。
こうしたものを
見れば見るほど、
古の職人たちの、
ものづくりに対する
情熱の凄さを感じます。
その情熱を
現代に引き継ぐ
湯田さんたちの塗る壁は、
だから美しいのだと、
思います。
今日鎌倉市役所に行って、
3月1日より始まる、
景観条例が定める制限の内容について
説明を受けました。
鎌倉市の景観地区内で
建物を新築したり改装したりする場合、
色彩や高さについて、
細かい条件が定められるようです。
こうして行政が
歴史都市として景観に目を向け、
具体的な指針を打ち出すことは
とてもいいことだと思います。
市民が景観のことを考える
きっかけにもなりますからね。
ところで先日、
電車に乗って出かけました。
その車窓から、
ある大きな新興開発住宅地が
見えたのですが、
壁も屋根も、
見事に同じ素材、
見事に同じ色でした。
色や形を揃えると、
本来ならばいい街並みに
なりそうですし、
おもちゃ箱を引っくり返したような、
何デモアリ、のまちよりは、
住宅開発の思想として
共感するのですが、
しかし私は、
この住宅地の街並みを見て、
そこに住んでいる方々には
申し訳ない意見なのですが、
決してすばらしいとは、
思いませんでした。
一方で、
同じ揃っている街並みでも、
例えば、ずっと木の格子が続く京都の町屋群、
あるいは、漆喰の白壁がずっと連なるまちなどは、
美しい街並みだな、と思うのです。
私はその新興住宅地を見て、
同じ「揃っている」でも、
私が違う印象を受ける理由は、
一体なんだろう、と思いました。
単にデザインの良し悪し?
あるいは揃っている素材の
質の問題でしょうか、
それとも、
後者がよいと思うのは、
長い年月そこにある続けることによって、
周りの景色と馴染んでいるからでしょうか。
こうして色々考えてみたものの、
自分の中で納得できる、
はっきりと皆さんに説明できる理由には、
まだ至っていません。
風景の感じ方は、
それを見る人の心理的背景、
美的感覚などに左右される、
主観的な要素が強いものなので、
私が見出す理由は
私だけのものかもしれませんが、
これから家という、
風景の一粒を作り続ける身として、
このことについてじっくり、
考えていきたいと思います。