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2006年6月8日

森にかよう道

カテゴリー: 今日のできごと

今まで生きてきた人生の中で、幾つかとても影響を受けた本がある。
森にかよう道-知床から屋久島まで-(内山節著)がそのうちの一冊である。
いや、実社会に出て読んだ中では、最も影響を受けた本かもしれない。

この本とは、三年前に出会った。
三年前、木の建築フォラム主催の集会に内山節さんのお話を聞く機会を得、とても共感を覚えていたところ、渋谷の本屋で偶然この本に出会ったのだ。
本が私を呼んでいたというか、星の数ほどある本の中で、この本と私は目が合った、という感覚であった。

今でもたまにカバンに入れては、電車の中でパッと開いた部分から読んだり、あるいは初めて読んだときに、気に入ったり共感を覚えた文章のところに赤線を引いていたので、その部分のみ抜粋して読んだりしている。

著者の内山節(たかし)さんは、山村で暮らす哲学者である。
だからこの本は、森の本であると同時に、人生哲学の本である。
現代の森と人間の関係について問いただすとともに、私たちはなぜ生きているのか、私たちの生きるうえでの価値観は一体何なのか、それをも問いかける本である。
やはり、森は人間の鏡なのだ。

木の建物に携わる身として、多くの人にぜひ読んでもらいたい一冊です。

2006年6月7日

吉田電設 古知屋さんの話


吉田電設さんは、大船にある電気工事屋です。

伝統的な木造建築構法の中で、実は電気工事は重要な位置づけとなります。といいますのも、電気配線を通すところを事前によくよく考えておかないと、意匠上配線がむき出しになりかねないからです(これをヨシとするのも一つの考え方ですが)。
伝統的な木造建築構法の建物の場合、基本的には木の構造体を包み隠しません。
本来だったら配線を通したい壁の‘フトコロ’も極めて少なく、さらには天井も貼らないことが多いので、配線の仕方にはとても気を使います。

ま、昔は電気なんてなかったですからね。
昔の家は電気配線しやすいようにできてません。
だから昔の家が今に残っている場合は、だいだいが電気配線がむき出しです。

余談ですが、このまえ鶴川の武相荘に行ったとき、建物の中で電気配線を竹を半割にしたもので覆っていました。
すばらしい美的感覚ですね、さすが!

話を元に戻しまして、吉田電設の古知屋さんとは、私の家を施工していただいて以来の付き合いで、その後も幾つか伝統的な木造建築構法の建物の電気工事を手がけておりますので、その点では安心して電気工事を任せることができます。

しかも、古知屋さんは、工事の進み具合を読んでマメに現場に足を運んでくださり、ときには木材の搬入を手伝っていただいたり、その仕事の姿勢には本当に助かっています。

2006年6月5日

山仕事塾そろそろ、そして山は穢れを清める

昨日はN邸の柿渋作業を午前中で切り上げて、午後山梨に向かう。
須玉IC近くの古民家にてNPO法人えがおつなげての総会に出席した後、みずがきランドに行って、地元の大工と来月から始まる山仕事塾の下打ち合わせを行った。
山仕事塾で何をするかというと、農産品直売のための小さな小さな小屋を、昔ながらの構法と地元の資材で、夏から秋にかけて、興味ある方々の手で作ろうという試みだ。
しかし興味ある方々で作るとはいえ、やはりプロの手助けがいるであろう、ということで、地元の大工に協力をいただきたいと思い、O黒さんを通じて打ち合わせをお願いした。
小さな仕事だが、興味を持っていただいたらしく、いろいろ話に花が咲いて、結局打ち合わせ時間は2時間半にも及んだ。
やはり昔ながらの構法というものは、職人魂を刺激するのだろうか。
またまた、面白い仕事になりそうです。

ところで、朝の柿渋作業時から何だか身体が重い感じがし、大工さんとの打ち合わせが終わった頃は不自然な寒さを感じたので体温を測ってみると、‘みそぎ’のお知らせだった。
この体調では約4時間の道のりを帰る自信がなかったため、O黒家の家にお世話になることにし、早々に就寝。
おかげでゆっくりと十分にみそがせてもらった。
今朝はまだ体調万全というわけではなかったが、それでもだいぶすっきりした。
それにしても、黒森の朝は静かで気持ちよい。
この季節にしては肌寒い感じだったが、それがむしろ凛とした感じがしてよい。
気持ちよいのとまだ頭がフラフラするのとで、もう少しゆっくりしたいところだったが、昼前に横浜の現場で約束があったため、8時前に帰路につくことにした。

みずがきランドの皆さん、ご心配をおかけしました。
おかげさまでたいへん助かりました。
日本の古きよき姿を見たような、そんな気がしました。

2006年6月4日

Nさん、木に愛を注ぐ(8回目)

カテゴリー: 横浜な邸


本日も柿渋作業日和。
風が吹き、適度に曇っていたので、暑くなりすぎず、かえって作業しやすかったです。
参加者はNさんご夫婦と私のみと、先週とはうってかわって静かな雰囲気の中で作業。
4寸角の甲乙梁を中心に塗りました。

私は、午後山梨に行く用事があったたため、午前中で失礼しました。

2006年6月3日

こどものうた〜かえるがぴょん〜

カテゴリー: 今日のできごと

今日は土曜日恒例(?)の焼杉作業
作業の後、東京駅に出て、大学時代の友人たちと久しぶりに再会しました。

さて、こどものうた第二弾。
最後、かなり「超現実主義」です。
周りをよく見て跳べ、ということでしょうね。

そういえば、げんの口ぐせは、「ぴょ〜ん」。
そう言いながら、手を肩の横でバタバタさせて跳んでます。
鳥になりたいのかもしれませんね。

・・・

題:かえるがぴょん

かえるがぴょん
とびばこいちだんとびこえて
ぴょんぴょん
ついでにとびばこ2だんとびこえて
とうとう100だんとんじゃって
たいくかんもとびこえた
ぴょーんぴょーん
じどうしゃとぼうとおもったら
くるまにづつきされちゃった
しかもかえるがとんじゃった

2006年6月2日

音楽の話、アシの話

カテゴリー: 今日のできごと

今日は夕方から模型作り。
こうした作業のときは、音楽を楽しむ。
今日は、先日K谷さんに手配していただいたrakiraさんのCDと、さっき手に入れたprimal screamの新譜「riot city blues」を交互に聴いた。
rakiraさんの音楽は首が横に揺れるようなやさしいピアノの音色、primal screamの音楽は、思わず首が縦に振れるようなノリノリのハードロック。交互に聴くことでお互いが引き立つ。
それと身体が単純ともいえる作業をしているときは、脳ミソはメリハリを求めるのかもしれない。

ところで、本日久しぶりにクルマを動かす資格が戻ってきた。
45日は長かったような短かったような。
結果的に「困った!」ということはほとんどなくて、クルマがないなりに生活が十分成り立つことが分かった。
遠出をしたいときは不便だな、と思うが、遠出を控えるようになるので、それはそれで悪いことではない。

いずれにせよ、自転車に乗る日々は楽しかったので、しばらくこの生活を続けようと思う。

2006年6月1日

原風景に出会った

カテゴリー: 今日のできごと


民家の納まりについて急いで知りたいことがあったので、日本民家園に行ってきた。
前々からぜひ来たかったところだが、ようやく初めて訪れることができた。

実は昨日夕方に訪れるつもりだったのだが、電車を乗り間違えて着いた頃には時間切れ。残念なことに‘お預け’状態となってしまい、まさに紆余曲折のうえたどり着いたので、余計に感慨深いものがある。
(○○急行、って向ヶ丘遊園に停まらないんですね)

さて、その民家園。

何だろう、この感動は。
美しいではないか。

木と土と竹と草が織り成す世界は、なぜこんなに美しいのだろう。
私が日本で生まれ、日本で育ったがために、日本の原風景ともいえるその世界に共感するからなのだろうか。
いや、客観的に見ようと努めるものの、どう見ても目の前に広がる世界は美しいのだ。
その理由はこれからじっくりと考えるとして、ともかく私は、この世界を目の前にして、今自分が取り組んでいる日本の伝統構法の設計活動を継続し、この世界を発展的に継承していきたい、という想いをいっそう強くした。

一つ、感じたことがある。
民家園には、東北、信越、関東地方の様々な地域の民家が二十数軒展示してある。
(奈良の民家も一軒あった)
いずれの家も、今日はとくに汗ばむ陽気ということもあって、屋内に入ると爽やかな気持ちよさを感じたが、その中でもさらに私が身体にスーッと馴染むなあ、と感じたのは、関東地方の木と土でできた家であった。
民家園の所在地は、神奈川県川崎市。
やはり、同じ日本の伝統的な建築構法でも、それぞれの風土に合う方法というものがきっとあるのではなかろうか、と思った。

2006年5月31日

こどものうた〜ひかりマーチ〜

カテゴリー: 今日のできごと

最近、弟の玄が、どういうわけか詩作にはまっている。
この前私のトレペが机の周りで散乱していると思ったら、詩集用に使っていたようだ。
(ちゃんと片付けろ―)

感性の赴くままに、思いついたことを書いている、といった感じだけど、なかなか面白いので順次発表します。

・・・

ひかりマーチ

たいようがきらん、
まぶしいたいよう、
あったかい屋じょういくと
あったかい昼にはごはんをたべて
たいようがきらん

雨になったらかみなりきらん
あめの日かみなりがきて
マヒしていやなんだ。

おつきさまはきれいだね

つづく

2006年5月30日

森は人間の鏡

カテゴリー: 家づくりの理念

世界の森林破壊を追う〜緑と人の歴史と未来〜(石 弘之著)を読んだ。

この手の題名の本は、保護一辺倒の論調ではないか、という先入観があるが、そうではない。
著者は、人間が生きるために森の恵みを使い、森と人間が共存関係にあるべきだという前提に立って、冷静に世界で起きている今の森林の状況を報告している。

そして私は、世界の森は今、たいへんなことになっていることを知った。
木を日常的に使う立場の者としては、衝撃的な内容であった。

日本でいくら国産の木が使われなくて困っているからといって、自然の恵みには変わりがない。
やはり、木は木として、目の前にあるものを大事にいただかなくてはならない。
やみくもに使ってよいものではない。
私たちは木を、木に対する愛を以って、そして人間社会の中で計画的に使っていく必要があろう。

ところでこの本を読んで、「経済」ってなんだろう、「国際社会」ってなんだろう、という疑問が沸々と湧いてきた。
世界の森林が破壊され続ける状況を見るにつけ、「収奪」と「征服」が仮面をかぶったものではないか、という気すらしてきた。

「経済の発展」という大義のもとに、各地域の恵みが収奪されていく。
自らの手と汗で幸せを求めるのではなく、今は他人から何かを奪うことで経済が発展する仕組みのように見える。
「国際社会化」という名のもとに、一つの価値観や文化が押し付けられ、地域の文化が否定されていく。
列強諸国による植民地支配が、‘武器’を変え、姿カタチを変えて各地で続けられているようにも見える。

そしてその行き着く先は、どこまでも同じ価値観や風景が続く世界だ。

日本でもその現象が顕著に出ている。
どのまちへ行っても同じ店、同じ風景。

「地球」は一つしかないけれど、「世界」は一つでおもろいか?
地球上にいろいろな世界があってよいではないか。
いや、そのほうが人間にとって気持ちよいはずだ。
なぜならば、一つとして同じ場所がないのだから、そこで自分たちを気持ちよくするために作る世界もいろいろのはずだからだ。

結局、誰のための「経済」、誰のための「国際社会」ということだ。
自分の利益のみ追求したならば、結局以上のような話になる。
森林の破壊、干ばつや洪水の被害の深刻化、砂漠化…、その場で本来の人間としての活動が困難になる状況となるという現象は、結局そうした行いの集積に対して自然界が出した結論だ。
経済や国際社会の支配者は、こうして食い散らかすだけ食い散らかしたら別の地にシアワセを求めに行けばよいが、元々そこで暮らす人たちにとってはたまったものではない。自分たちが尻を拭わされるのだ。

も少し、三秒でもよいから立ち止まって、‘他人のシアワセってなんだろう’、と考える余地があれば、きっと結果は違うのに。
あるいは、何秒後、何年後の自分だって、ある意味では‘他人’なのだ。

森は人間の鏡。
森がなければ私たちは暮らせない。
今、世界の森、いや近くの森でよいから、森で起きている状況を知り、自分たちの行いを糺していく必要がありそうだ。