冬の空の色
一昨日の神奈川の冬の里山にて。
冬は早く日が暮れる分、太陽は色で私たちを楽しませてくれる。
神奈川県の冬の里山を歩く。
ナラやクヌギの林である。
ところどころ、スギヒノキの植林もある。
ここで3月ごろに里山木工教室などのイベントをやろうというわけだ。
そのしかけのための下見。
ここは前も来たことがあるが里山は、季節ごとに表情を変えるので、何時来ても新たな風景の発見がある。
それにしても、西には富士山が、東には遥か遠くに横浜のランドマークタワーが見える、気持ちいい場所だ。
見晴らしが良い分、今日は風が強すぎた。
頭が痛くなるほど頭が冷えた。
ではでは皆さん、イベントのときはぜひお越しになってください。
温泉もあるでよ。
朝現場に向かう車の移動中、ラジオから株の誤取引に関するニュースの続報が流れてきた。
ある証券会社の誤った売り注文により、別の証券会社が120億円(数字はうろ覚え)の利益を得たとのこと。
情け容赦ないなあ。
もともと株や投資に興味はないのだが、一体資本主義って何だろう、と思った。
自分のことだけ考えていりゃいいのか。
人間、基本的には失敗はないほうがいい。
その中でも、医療ミスだったり、あるいは砂糖を塩と間違えるような取り返しのつかない失敗は許すべきではない。
失敗したら、損失を伴うのも分かる。
とはいえ残念ながら、善意で行動していたとしても人間には失敗は必ずある。
しかし失敗があったとき、それを補おうとするのが人間というものではないだろうか。
それが結果的に人間社会全体の利益につながるからだ。
「人間社会」なんて、少し説教くさいか。
例えば、自分の仕事の世界で話をしよう。
自分は建物づくりを仕事としている。
建物づくりの現場は、仕事の期間が長い。
その期間の中で、失敗がないようにするのが我々設計屋の仕事であるが、残念ながら失敗はつきものなのである。
しかし失敗が起きたとき、あるいはそれに気づいたとき、必ず関わっている皆で失敗を補う力が働く。
なぜならそれを放置していたら、必ず建物全体の不利益につながるからだ。
建物づくりのように「実像」の世界では、モノづくりでも商売でも、「全体」のことも考えなければうまくいかない。うまくいったと思っても、長続きしない。
やはり常に「全体」のことを意識し続ける必要がある。
とはいえ、「全体」のために欲望を抑え、献身、犠牲心こそがいちばんの美徳、と言うつもりはない。
それはそれでとてもすばらしいことだと思うが、それを押し付けるつもりはさらさらない。
人間は基本的には自分がいちばんかわいい。
それは間違いない。
むしろ、どうしたら自分が得になるだろうか、という感覚を持ち続けることはとても大事だと思っている。
それが、段取りのよさ、仕事の質の向上、さらには逆説的だが献身的な働きにつながると思うからだ。
しかし「実像」の世界では、自分のことだけ考えて行動していたならば、結果的に自分が損になるようにできている。
だから、「全体」のことも考える必要がある。
一方、「虚像」の世界ではどうだ。
文字どおり自分のことだけを考えていればいい。
あるできごとによって利益不利益を被るのは、基本的には当事者だけだ。
ゲームの世界。
あまり経済については明るくないので偉そうなことは言えないが、「資本主義」というのは、つきつめれば「カネ」のみがモノサシの、「虚像」の世界だ。
件のニュースで、損した儲けた、なんて話も、「マジメ」な人たちが真面目そうに取り組んでいるから錯覚するが、結局はゲームやないの。
その「虚像」の世界が巾を利かせ、世の中を動かしていることに、少なからず不安を感じる。
現に今、モノ作りの現場、人間臭いやり取りのある商売の世界、「実像」の世界がどんどんと我々から遠のいていないか?
生産は効率第一の機械に頼りっきり、そして生産の場所は土地代の安い、我々の見えない世界へ。
モノの取引や飲み食いも、まるで機械が対応しているような大型ショッピングセンターやチェーン店。
そして子どもたちの遊びは、ドロケイからテレビゲームへ…
もう将来の不安なんてどうでもいいや、そんな世の中、おもろないやん。
さあ、明日も現場現場。
昨日はI邸のIさんが勤めているお店「Kuh」で、久しぶりに大学のラグビー部の同期連中5人でメシを食った。
ここのメシは相変わらずうまい。
とくにごはんとみそ汁。
さて、ラグビーを引退して早12年経ち、トシも34〜35歳になるが、みんなまだ風貌に極端な変化はない。
しかし、昔は顔を合わせればアホな話ばかりしていた連中だけど、今こうして話をしてみて、12年間それぞれがそれぞれの道を歩んできた蓄積を感じた。
そういえば話の中で、3月4日、5日と、恒例になりつつある「カマクラ作成ツアー」を開催することになった。
今から宣言しておけば、仕事の予定はきっと入らないであろう。
夏は川の旅、冬は雪国へカマクラを作る旅。
大人になっても、楽しむ心のつながりは、いつまでも続く。
今日の夕方、娘にせがまれて、クリスマスの飾り付けをした。
いつだったか東急ハンズで買ったニセモノのモミのワッカにいろいろ飾り付けをして、渡りあごのところにひっかけると、ぐっとクリスマス気分に。
作りながら、あ〜もう12月かいな、とつぶやく。
今年はほんとうに時の経つのが早く感じた。
手帳をパラパラとめくってみる。
すると、今年に入って予定の入っていない土日が一日しかなかった。
それほど充実していたのだろう。
今年もあと少し。
しかしあと少しで結末を迎える物語もあれば、これから始まる物語の準備もある。
今年最後の踏ん張りどころ。
ところで、伝統構法の家にクリスマスの飾りも悪くない。
影がきれいでしょ。
今日は珍しくずっと家で作業。
大学1年のときから使っている、事務机用の椅子がついにぶっ壊れた。
応急措置として、半径30cmないような円形の折りたたみ椅子に座っている。
ずっと座っていると、さすがに尻が痛い。
しかも、椅子が動かないということがこんなに苦痛とは思わなかった。
最近の椅子は、やっぱり人間工学的にちゃんと考えられているんだろう。
しかし、忙しいときに何でこうなるんじゃ〜。
たまらずアスクルで椅子を発注した。
先週開催された木の建築塾の、鳶職人の話の続き。
まずは山口政五郎さんの印象。
典型的な江戸っ子風情。親分肌。
どちらかというといかつい感じ(失礼)だが、言葉がとても丁寧。
お客様を大事にしている心が伺える。
言葉の歯切れもよく、話を聞いていて気持ちいい。
鳶は一昔前はまちの調整・相談役。
コーディネーターといった方が分かりやすいか。
足場をかけたり基礎を打つといった建設作業だけではなく、いざというときは冠婚葬祭などまちのイベントの段取り役だったそうだ。
だから鳶は、「カシラ」とも呼ばれる。
次に印象に残った言葉を幾つか羅列。
「金を出す奴は口出すな。金がなければ知恵を出せ。何もなければ汗をかけ。
…金を出す奴が口出すと、下の奴がシラけてしまう。」
この言葉、とても気に入った。
オレは知恵と汗を出そう。
「大工は、無から有を生み出す。鳶は無から有を生み出し、そしてまた無に帰る。」
はかない。
この日本の美意識に合う仕事。
そういえば、今年の夏、葉山の海の家「ブルームーン」の竹組みを見てとても気に入ったが、あれは鳶の仕事の延長やね。
「日本の建築文化は関西から来ている。だから関西のやり方は合理的であることが多い。」
なるほど。
「縄は切ってはいけない。切らなければ何回でも使える。」
「古くなった縄は、荒木田に混ぜるといい。枯れているからちょうどいい。」
どんなものでも最後まで使い果たす精神。
これを当たり前のようにやっていた。
今僕らが、「エコ」とか「環境共生」とか言っていることは、昔はごく当たり前に取り組んでいた行動規範であった。
酒匂さんの話を聞くと、「パーマカルチャー」もそうだ。
「もったいない」という心がけ。
そういえば昨日、子ども(弟の玄)と椅子作りをした。
前々から「23日に椅子作ろう」と約束していて、子どもはこの日を待ちわびていた。
玄はまだ7歳なので、まだまともに工具を使えないが、横で「何かやることはないのか」とうるさい。といいながら、切れ端を積木代わりに、私の横で何やら夢中になって遊んでいる。
こちらも大工仕事を始めたら始めたで、夢中でとりかかる。
…痺れを切らした玄は、電動ドリルを意味もなく回したり、しきりに工具を使いたがる。
せっかくだから工具の使い方を教えるが、まだまだ危なっかしい。
とまあ、そんな午後のひとときを玄と過ごした。
こういう形で子どもと家で時間を共有したのは実に久しぶりだ。
自分も気分が落ち着くし、子どももなんだかうれしそうだ。
たまには、月に一度くらいは、こうした時間を作ろう。
昨今建築業界は、どこもあの話題でもちきりだ。
住まいは、「構造」ありきです。
なぜならば、字の如く、住まいは人が主(あるじ)だから。
大金はたいて手に入れるものがそう簡単に壊れちゃ人は困る。
ちょっとした自然災害で危険にさらされちゃ人は困る。
「法」で云々以前に、人として人様に建てる家を考えれば、その表現方法は人それぞれだろうけれど、「構造」は前提の一つになるはずだ。
一方、今の住まいづくりって、カネが中心となって回っとりゃせんか。
早く。安く。さらには目に触れないところは安いもんでごまかしちまえ。
今回の事件は、その象徴だ。