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2011年8月15日

「外」も感じて「内」を見る

カテゴリー: 家づくりの理念

ここにきて、
毎日太陽がギラギラ、
暑い日々が続いております。

皆さんはこの暑さを
どのように凌いでおられますか?

やはり最も手っ取り早いのは、
エアコンでしょうか。

以前もこの場で書きましたが、
今や我が国のエアコンの普及率は
なんと約9割!

エアコンのない我が家は、
伝統工法や達磨窯で焼いた燻し瓦同様、
絶滅危惧種となりつつあります(笑)

今後も付ける予定はありませんが、

希少価値を高めるために、
暑さを耐え忍んで…、
というわけではありません。

原発に依存しない社会を
作るために節電対策として?

…それは少しだけ、
あるかもしれません。

確かに家の中は、
エアコンのある家に比べれば
暑いと思うのですが、

しかしエアコンなしでも、
何とか暮らせていけます。

いやむしろ
決して負け惜しみではなく、
それだからこそ
気持ちいいと思う時すらあります。

ちょうど今、
日が暮れた時間、
私の右手にある窓から
そよそよと入ってくる風が
とても気持ちいい!です。

一方で、
確かにエアコンがよく効いた
コンビニなどに入った瞬間、
正直に「ああ天国(笑)」と感じます。

しかしそう感じるのは一瞬で、
しばらくして外に出ると、

今まで「暑いな」程度に
思っていた屋外が
とんでもなく不快な、
地獄のような場所に感じます。

つまりエアコンの存在により、
建物の内と外が完全に遮断され、
禁断のシェルターの中へ
閉じ込められたような
気になります。

かといって夏の暑い日が続く間、
一歩も「外」に出ない生活は、
少なくとも私にとってありえません。

しかもエアコンによる快適さは、
屋外に熱風を放つことにより
成り立ちます。

「内」と「外」の遮断化に
拍車をかけるどころか、

家のゴミを
外へ無造作にポイポイ投げ捨てて、
家をキレイにしているような感じがして、
それでいいのかなあと
その機械の仕組みに
違和感を覚えてしまうのです。

エアコンが如何に節電型であろうが、
その電力が太陽光だろうが風力だろうが、
その機械の仕組みに
変わりはありません。

確かにエアコンは、
時と場所によっては
必要だと思います。

熱中症のことを考えれば、
やせ我慢も禁物です。

しかし夏の暑さの凌ぎ方として、
安易にエアコンに依存せず、

例えば家の外に、
涼しさをもたらす
緑をたくさん植えること、

外から風を取り入れるために、
窓を随所に設けること、

家の中に日陰を作るため、
軒の出を長く出すといった

外をゆるやかに感じる内、
内を心地よくするための外、といった
内と外とのいい関係作りの観点から、
考えることができればと思うのです。

実はこの観点は、
もちろん地域性もありますが、
住宅の温熱環境を評価するうえでも
大切だと考えています。

住宅の設備や断熱性といった
家の「内」のみの視点で
住宅の性能を論じれば、
必ず「外」に、
いや「内」にいる私たち自身の身体に
ツケが回るような気がしています。

夏は外の厳しい暑さをほどほどに感じ、
冬は外の厳しい寒さをほどほどに感じ、
その中に心地よさを見い出すこと。

このほうが結果的に、
身体が喜ぶと思うのですが、
医学的に見てどうなのでしょうか。

私が暮らす周辺の地域で
建物を設計するうえで、
夏も冬も、
「内」と「外」とを
断つのではなく、
「内」を「外」から
ゆるやかに包んでくれる土壁を
提案し続けているのは、
そうした観点も理由の一つです。

2011年5月29日

家やまちで今できそうな、きらくな的エネルギー対策

カテゴリー: 家づくりの理念

大震災以降、
やはりエネルギー問題、
とりわけ電気の話に
関心が向かざるをえません。

一極集中している
現在の電気供給の仕組みを解体し、
如何に地域分散型の仕組みを作るか。
またはそれに頼らない暮らしを作るか。

その仕組みや暮らし作りに向けて、
建築の作り手として、
あるいはまちの中でできることは?

先日、
夏は風、冬は陽と火と暮らしたい
と書きましたが、
今できること、
できそうなことを
私なりの考えを交えて
ここに記しておきたいと思います。

冬1:薪の活用

薪を調達したり、
火をくべたり、
管理の手間はかかりますが、

とても温かいこと、
また空間の中に
火があるということが
いいですね。

先日竹小舞かき隊でお会いした
鎌倉か邸の‘か’さんも、
吹抜があるのに温かくて
Tシャツで過ごせるほど、
とおっしゃっていました。

薪は買うと高いですが、
一方で私たちの建築現場からは、
限りなく木材を使い尽くそうとしても
それでも廃材が出ます。

植木屋さんが
まちのどこかで
庭木を剪定します。

雑木林の中には、
枝が枯れて落ちていたり、
多少手を入れて、
木や枝を伐る必要さえあります。

工夫すればまちの中で
薪を供給する仕組みを作ることが
できるのではないかと思います。

冬2:土と木に囲まれて暮らす

昔々の人たちは、
寒さを凌ぐために、
土を掘ってその上に
茅葺屋根のような屋根を架けて、
家を作りました。

つまり竪穴式住居ですね。

確かに土は
断熱性能は低いですが、

家の中に火があれば、
土の持つ高い蓄熱性が
効果を発揮します。

薪ストーブと
相性がいいのです。

また空間の表面、
とりわけ床の仕上げに
熱伝導率の低いものを
使うことによって、
だいぶ体感が違います。

私の場合、
無垢の木の板を使うことが
多いですが、

畳や絨毯などもそうですね。

ただしそれらは、
防虫などのために
有害な薬剤などを
浸み込ませていることがあるので、
十分吟味して
選択する必要があります。

いずれにしても、
仕上げだけ替えても、
体感に違いが
出てくるのではないかと
思います。

夏1:風を通す

これは言わずもがなですね。

地震対策も必要なので、
今の家はどうしても
壁の多い作りとなってしまいますが、

私の場合、
構造上は壁であっても
足固めを入れて地窓を仕込んだり、
あるいは屋根の木組みの間の
高い位置に窓を作ったりして、
横に縦に風が通るように
していきたいと思っています。

夏2:木を植える

木陰を作るという意味もありますが、
やはりコンクリートやアスファルトで
舗装された場所と、
土があり草木が植わる場所とでは、
そもそも体感温度が違います。

一度真夏の昼間、
南側に森がある家に
伺ったことがあるのですが、
冷房をかけていないのに
そうかと思うほど、
家の中が涼しかったです。

熱1:太陽熱の利用

私の持論ですが、
太陽のエネルギーは、
熱として使ったほうが
高度な技術は要らないし、
効率もいいのではないかと
思っています。

なので機会があれば、
太陽熱温水器を
提案したいと思っています。

以前属していた事務所では、
真空ガラス管による太陽熱温水器を
使っていて気に入っていたのですが、
残念ながら廃番となってしまい、
しかし少し前、
どこかで復活するという話を
聞きましたので、
その動きに期待したいと思います。

ところでこうした
自然エネルギーを使う装置ですが、
もう少しデザインがよくなれば
使いたい!と思う気持ちが
高まるような気もしています。

熱2:薪の活用(その2)

先ほど薪ストーブについて
書きましたが、
熱源についてもやはり
薪が使えないものかと
思っています。

薪でお湯を沸かすとなると
昔のつらい生活を
想起するかと思いますが、
薪ボイラーという
なかなかステキな設備があります。

かつて設計した家で
採り入れる寸前までいったものの、
諸々の関係で見合わせたのですが、

敷地に余裕があればぜひ
使ってみたい設備です。

発電1:ゴミ処理施設を活用できないか

火力発電というものが
あるわけです。

一方まちの中で、
集中的に火を焚くところといえば、
ゴミ処理施設。

この排熱を利用したプールは
各地で見かけますが、

これと同じように
発電装置を併設することは
できないものでしょうか。

発電2:自転車発電機

フィットネスクラブに行けば、
かなりの人たちが、
バイクマシンを漕いでいます。

中には
本などを読みながら漕いでいて
楽しそうです。

この力を家の中で
発電に使うことは
できないものでしょうか。

朝15分から30分、
新聞読みつつ
発電自転車を漕いで出勤、

メタボ対策にもなりそうです。

もっとも、
優秀な蓄電装置の開発が
必要そうですが。

・・・・・

以上、
まだまだあるような気がしますが、
今思いついたことを書いてみました。

他にも色々な人たちの
こうした工夫や発想に関する
情報を集めてみて、
まち単位で一つ一つ
実現性の検証をしてみたら
面白いですね。

そんなワークショップ、
やってみたいなー。

2011年4月22日

めのまえ、をいかす

カテゴリー: 家づくりの理念

先日、某地で、
江戸時代末期築の
古民家の解体現場を
見る機会がありました。

そこで気づいたこと一つ、

もちろん伝統的な建築技術で
作られているその家には、
思いのほか継手・仕口が
少ない、ということ。

使われていたとしても、
ホゾ、アゴ、アリ、カマといった
基本的な継手・仕口が
ほとんどです。

裏を返せば、
二間だろうが四間だろうが、
真っ直ぐだろうが曲がっていようが、
当時身近に手に入る材木
そのままの特性を活かして、
建てていたということになります。

伝統に学ぶ、とは、
工人が長年の研鑽の中で編み出した
高度な建築技術を学ぶことも
確かにその一つですが、

このように
目の前にある材料で
合理的に計画する、
という作法、

ここに本質の一つが
あるのではないかと
かねてより感じています。

先日古民家を拝見して、
改めてそう思ったのですが、

では現代に当てはめると、
どうでしょうか。

今、里山の小さな家や、
木の仮設復興住宅のありようを
構想しているのですが、

そんな作法を踏まえて私は、
全て4寸角のスギまたはヒノキで、
比較的平易な継手仕口を用いて
作ることができれば、
と考えております。

戦後拡大造林の影響で、
今4寸角に適した
スギヒノキが
たくさん山に
あるはずだからです。

建築資材が足りない!
と言われている今こそ、
この伝統的な工法の本質を
伝えていくことができれば、
と考えています。

2011年4月13日

手仕事の意味

カテゴリー: 家づくりの理念

これから再びまちを
興していくにあたり、
どんな住まいづくりが
望ましいだろうか、
という問いかけが
今常に私の頭の
片隅にあるわけですが、

やはりその方法論は、
仮設であれ何であれ、
「手仕事」が
基本であってほしいと
思います。

戦後、時代の要請で
大量生産を求められた時代から
今に至るまで、
手仕事は衰退の一途を
辿りましたが、

しかしその結果、
私たちの周りは、
モノも住まいもエネルギーも、
「手に負えないもの」ばかりに
なってしまいました。

確かに手仕事は、
時間がかかります。

その分おカネも
かかる傾向にあります。

品質は不安定かもしれません。

しかし一方で手仕事は、
実体のある雇用を産みます。

また手をかけただけの
品質と付加価値を産み出す
可能性を秘めています。

例えば、
木材の世界で
高いブランド価値を誇る吉野杉。

吉野の山は、
苗木を密植し、
途中間引いたり
枝を落としながら
木を育てるという、
非常に手間のかかる
今の育林方法の
発祥の地と言われていますが、

その理由は、
もちろんそうすることによって
質の高い木を育てることが
できるからですが、

もう一つ、
農業が成り立たない
中山間部において、
山で人々の仕事を作るために、
という話を聞いたことがあります。

同じように、
復興に向けて
敢えて手間を要する
木の住まいを作るということは、

山にまちに仕事を作り、

それが巡り巡って
住み心地のよいまちと
経済の活力を産み出すことに
つながることにならないかと
思うのです。

課題はとてつもなく
大きいと思います。

ある意味で、
社会に大きな包容力が
求められることです。

しかし
遠くにありすぎて見えないもの、
大きすぎて手に負えないものに
頼る社会の脆さと危険を
肌で知った今、

食べるもの然り、
住まいも然り、
エネルギーも然り、

見える力で
暮らすということ、
何かを作るということ、

このことが
再び価値を見出し、
普遍となる社会に
なってほしいと思います。

今できること、の
エネルギーが大きい今こそ、
価値観を変える転機です。

2011年3月29日

木の仮設住宅を作りたい

カテゴリー: 家づくりの理念

東日本を大きく揺らした
大地震から2週間以上が経ち、
復興に向けた芽が
出始めている今、
夢想していることがあります。

この先形になるかどうかは、
分かりませんが、
しかし考えを表に出さなければ、
形になることはありませんので、
この場に書き留めておきたいと思います。

それは「木の仮設住宅」。

深い付き合いのある大工が私に
仮設住宅の取り組みを
持ちかけてくれたのですが、

その瞬間、
これまで断片的に
夢想していたカケラたちが
頭の中でつながり始めました。

これから被災地に、
急いで大量に仮設住宅が
作り始められます。

今の状況を考えれば、
一刻も早く作る必要があるでしょう。

しかし一方で
鉄板とベニヤでできた
今の一般的な仮設住宅は
居住性の悪さが指摘されています。

住むのは2、3年でしょうが、
されど大事な2、3年。

そう考えた時に、
いつも私たちが使っている
木を使うことができないか、
と思うわけです。

どう作るか、
どんな形のものを作るか、
という技術的な話は
今ここでは置いておいて、
(ゆくゆくはしたいと思います)

今、山に木がたくさんあります。

間伐を待っている木が
たくさんあります。

日本全国、
そして被害が甚大な東北地方にも、
木はたくさんあります。

この際、
今多くは立ち行かなくなっている
日本の山を再生するためにも、
仮設住宅に日本の無垢の木を
とりわけ地元の木を
使うことはできないものでしょうか。

それによって様々な長所が、
思い浮かびます。

まずは居住性。

木は断熱性、調湿性といった
居住性に関わる機能面と
安らぎを与える意匠面を
持ち合わせた素材です。

木を活用することで、
少なくとも今の仮設住宅よりは、
居住性を高めることが
できるのではないかと思います。

次に再利用性。

木を使い、
手仕事で作る建物は、
昔の民家のように、
解体しても再利用できる
可能性を秘めています。

あまり考えたくはないですが、
次の災害の際の備えとして、
再び使うことができます。

仮に処分せざるを得ないとしても、
燃やせば暖を採ることができます。

次に環境負荷の低減。

生産に要するエネルギー、
あるいは廃棄の際に要するエネルギーは、
木は鉄やアルミなどに比べれば、
低い素材です。

そして木があり、
大工がいれば、
もうそこで形にできる。

エネルギーの問題に
直面している今こそ、
その点で優位な素材の利用を
進めていきたいものです。

費用や防火性の面など、
課題は多いといえますが、

同じような思いを持つ
木の建築人は多いようで、

実際同じような声を各方面で
聞き始めています。

思いを集結して、
何とか形にしていきたいですね。

実はこの話の続きとして、

以前この場でも書き留めた
里山の小さな家へと
つなげられないかと考えています。

イナカで
新規就農者を受け入れる住まいとして、

あるいはまちなかで、
おカネが少なくても実現できる
木の家として、

今こうして考えていることを応用し、
こちらもゆくゆくは、
ぜひ実現したい!
と思っています。

2011年1月5日

年頭所感2011

カテゴリー: 家づくりの理念

明日は仕事始め。
今は仕事再開のための
準備をしているところです。

仕事の再開に際し、
これからの一年を
どのように生きるか、
考えるわけですが、

そんなことを
考えるうえで

ここ数年、
様々な場面で、
経済の危機
社会構造の危機、
といった話が耳に入ります。

こうした話を
耳にするたび、
政治や経済の世界で
危機的な状況を
乗り越える動きに
期待する一方で、

危機、の話を聞けば聞くほど、
人として生きるための力をつけ、
生きる楽しみを見失わなければ
割と楽しくやっていけるのではないか、
という思いを強くします。

例え年金がスズメの涙でも、

飢えないほどに食べ物を確保できて、
寒くないほどに着る物を確保できて、

美しいことを美しいと思う心と、
日々の苦楽を共にする仲間がいれば、
私たちは楽しく生きていくことができる。

今年はとくにそのことを意識して、
そのために必要な器としての
住まいづくりという視点で、
仕事に取り組めればと思います。

方法論は、
変わりません。

伝統に学び、
今を作ること。

素材と職人の技を
活かすこと。

住まいづくりを通じて
つなげること。

ということで本年も
よろしくお願いいたします。

2010年12月5日

なぜ、きらくなたてものやなのか

カテゴリー: 家づくりの理念

なぜ、
「きらくなたてものや」
という名前なのか。

ありがたいことに
よく聞かれます。

くだけた名前
だからでしょうか、

しかし事務所を立ち上げる際、
これから活動したいこと、
やるべきことを踏まえて
まじめに考え抜いた名前です。

そういえばこの場で
その理由を述べる機会を
逃がしていたので、

今更ですが今日、
それを発表したいと
思います。

ではその名の心は、四つ。

まず一つ目は、
「木」を使って、
「楽」しく心地よい建物を
作っていきたかった。

二つ目は、
この業界では設計者のことを
「先生」と呼ぶ
習わしがあるのですが、

私は「先生」と呼ばれるような
敷居の高い存在ではなく、

地域の中で
建物について
気軽に相談できる
存在でありたかった。

三つ目は、
子どもたちに
伝統的な建築技術や知恵、
森のこと、木のことなどを
伝えていく機会を
作っていくために、
子どもたちも親しめるような、

そしてできれば
三×三に納まる
九文字のひらがなの
名前にしたかった。

四つ目は、
建物づくりは、
建主さん、職人たちとの
協働による成果品、

だとすれば、
個人の名が先に立つよりも、
私たちチームの雰囲気を
よく表す名前にしたかった。

以上の結果が、
きらくなたてものや、です。

それでは今後も、
この名をよろしく
お願いいたします。

2010年9月2日

きっかけのマンガ

カテゴリー: 家づくりの理念

先日からたびたび書いている
エアコンなどの話。

最近こうして、
「快適」は大切、
しかしそれを闇雲に求めるのではなく、
自然界を生きる人間の身体にとって
家の中の望ましい温熱環境とは何なのかを
考えるきっかけになった一つは、

夕ごはんを食べようと入ったお店で、
注文後ごはんが出てくるまで
何気なく手にした一冊のマンガでした。

もともと
「体温」と「免疫」のお話で、
その中で少し、
温熱環境のことにも
触れているのですが、
伝統に学ぼう、が
全体の結論めいたことの一つです。

工法と同様、
全て昔に戻れば
いいというわけでは
ないと思いますが、

しかしとても
示唆に富んだ内容です。

ご興味のある方、
ぜひ手にとってみてください。

2010年8月30日

熱中症∝快適性?

カテゴリー: 家づくりの理念

先日この場で、
エアコンと熱中症に関する
記事を書きました。

この「熱中症」という言葉、
ここ最近よく聞きますが、
私が二十代の頃までは、
あまり耳にしたことが
ありませんでした。

どうも気になるので
調べてみたら、
1994年、私が大学生のときに
熱中症で死亡する方が急増し、
その年以降、今日に至るまで、
その数はほぼ同じ水準で
推移しているようです。

きっとそれ以降でしょうね、
「熱中症」という言葉を
よく聞くようになったのは。

確かに94年は猛暑の年、
真夏に自転車旅行したので、
よく覚えています。

そしてその前年は、
記録的な冷夏の年。
7月末でも長袖でないと
寒いくらいでした。

その急激な温度差が、
熱中症による犠牲者を
急増させた要因の
一つでしょう。

ただし不可解なのは、
94年の水準が
少し減りこそすれ、
その後もそれほど大きく
変わらないという点です。

やはりここ近年、
地球温暖化が
進んでいるのかも
しれません。

しかし、果たして
それだけでしょうか。

これだけ空調技術が発達し、
普及している世の中です。

これも気になるので
クーラーの普及率を調べてみたら、
94年は約80%、
ここ数年は何と約90%!です。
(となると我が家は残り10%か…)

ほとんどの家に
クーラーがある世の中なのに、
なぜ熱中症被害の水準は、
減らないのでしょうか。

色々要因はあるでしょうが、

私たち建築側が、
家や職場の
「快適性」を追い求めるばかり、
室内の空気を加工することが
設計の前提となり、

その結果、
逆に空気を加工しなければ
到底居られない空間ばかりと
なってしまった、

少し空気の加工を怠れば、
そこはもう、灼熱地獄…

そして人間は、
「快適」に空気を加工した
空間に慣れてしまい、
暑さ、寒さも含めて
温度の許容範囲が狭くなり、

あるいは、
快適な場所が多いばかりに
それ以外の場所、
とりわけ外気を
より暑く、より寒く、
感じるようになってしまった、

建築に関わる立場として
そんな気がして
ならないのです。

そう考えたときに、
「快適性」の追求とは、
一体何なんだろうか、

これまでは、
心地よいとされる温度湿度を
「エコ」全盛のこの時代、
如何に少ないエネルギーで
保つことができるかが
重要な課題でしたが、

暑い日、寒い日もある
この地球上で暮らす
生きものとして、

生きる力を、足してくれ、
とまでは言いません、
暑い日は風と陰の力を借り、
寒い日は火と陽の力を借り、
生きる力を維持できるような
居場所を作ること、

長い目で見て、
そんな視点が
必要のようにも思います。

今の私たちの方向性は、
人間の生きる力を
弱めてしまって
いるのではないか
と考えるのは、
行き過ぎでしょうか?

余談ですが、
熱中症が生じる原因の一つに、
塩分欠乏という文字を
見つけました。

熱中症が最近多い
理由の一つは、
ここ近年、
高血圧対策等としてよく聞く、
「塩分控えめ」が
裏目に出ているのかも
しれません。

実際に塩分摂取量は、
毎年着実に
減っているようです。

日本伝統の
味噌も醤油も、
○○が何グラムではなく、
「美味しいと思える味」
で食べようよ、
と思っているクチです。

2010年7月5日

環境にやさしい、という言葉

カテゴリー: 家づくりの理念

最近、
「環境にやさしい」
という言葉を
よく耳にします。

多くの人たちが
そういった方向に
意識が向くのは
とてもいいことです。

しかしこの言葉、
よく考えてみれば、
何だか不思議な
感じがします。

私たちは、
環境にたくさん
お世話になり、
あるいは、
存在自体がもしかしたら、
環境にご迷惑を
かけている立場。

だとすれば、
環境にやさしく接するのは、
当然といえば
当然のことであって、
殊更「やさしい」を
連発するのは、

「オレってやさしいだろ、
だからありがたく思え。」
みたいな感じで、
少し押しつけがましい
感じがします。

ついでに申せば、
同じく最近よく聞く
「エコ」という言葉も、
聞く回数が多いほど、
同じ香りが私にはします。

ま、やさしくないより、
やさしいほうが、
エコじゃないより、
エコのほうが
いいですけどね。

ただ例えば、
車が如何に
「環境にやさしい」
技術を積んでいても、
車を走らせる、
その行為そのものが
環境にご迷惑を
おかけしているわけです。

ガソリンにしろ
電気にしろ、
環境の犠牲のうえに、
私たちは
走るエネルギーを
得ているわけです。

食べ物と同じで、
何かを使う前に、
買う前に、

それが如何に
「環境にやさしい」
モノであろうとも、

手を合わせて、
ありがたく、
いただきます、
の心を持ち合わせることが、
とても大切なのだと
思います。